2006-03-29 第164回国会 衆議院 外務委員会 第7号
そして、ここにおもしろい、確かに百人の先遣隊が道路の南側に腰をおろし、その反対側でたくさんの支那人の群衆が彼らを眺めていた。人と見れば切り殺したんだったら、こんな状況はないんですよ。彼らを南京にいる人間は見ていたんです。そのとき、このスマイスは、日本兵に対して地図を示し、ここは安全区だからこの地域では日本兵は鉄砲を撃ったりしないようにと指示を与えているんですね。
そして、ここにおもしろい、確かに百人の先遣隊が道路の南側に腰をおろし、その反対側でたくさんの支那人の群衆が彼らを眺めていた。人と見れば切り殺したんだったら、こんな状況はないんですよ。彼らを南京にいる人間は見ていたんです。そのとき、このスマイスは、日本兵に対して地図を示し、ここは安全区だからこの地域では日本兵は鉄砲を撃ったりしないようにと指示を与えているんですね。
「日本軍は礼儀正しく、しかも、敬意を以て私共を処遇してくれた」「日本兵が支那人を助けたり、支那人の赤子を抱きあげているのを見た」「日本軍の手によって難民達に米が分配された」「七〜八名の大変立派な日本兵が病院を訪れ、病人に与える食べ物や、私達が一か月も食べてない若干の牛肉と百斤の豆を持って来てくれた」と述べているのです。 国際委員会の書記長であるスマイス博士も調査報告で「難民。
これはきょうの資料にはお配りしてないのですが、そこにその慰安所の料金が書いてあるわけでございますが、「使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス」、支那人は一円、半島人は一円五十銭、内地人は二円、「以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)八倍額トス」、こういうふうに書いております。つまり、こういう形で——委員長、お示ししてよろしゅうございますでしょうか。
しかも、料金は内地人、半島人、支那人という形で差別をしていたという、非常に非道な実態が出ているわけでございます。 こういうような状況でございますが、なぜこういう軍の慰安所を設置しなければならなかったのか、その点についてはどのような御意見をお持ちでいらっしゃいましょうか。
これは「お父さんあなたはそんな雪の降るそして食物もない所で支那人と戦争をして居られるのですね。それをお母さんも非常に心配して居られます。そのおられる所の名をどうぞ教へて下さい。お父さんの居所を知って居れば私も気が進みますから手紙をきつと下さい。貢もだんだん大きくなります、時々「ちやんちやん」と言つて父さんを探すので、すぐお母さんは涙を眼に浮べます。
北京の駅におりたとき先輩は一番先に何と言ったかといったら、「玉置君、この北京へ来たら、支那と言うなよ、支那人と言うなよ、チョンクオと言え、チョンクオレンと言え」と言った。その中国というのは、モンゴルも含み、いまの中国大陸も含み、いまの台湾省全域も含んだのが中国なんです。
やたらに法律をつくって、わけのわからない――やっぱり無学な支那人から見たならばわけのわからないものだったかもしれませんよ。そういうようなものをつくってそして自分たちの生活を束縛するようなやり方はけしからぬと、こう言って法匪ということばがはやったのですが、同じような傾向がなきにしもあらず、私自身もこういうように考えていたわけです。
こういうちょっとしたことで、九十円と百四十円の違い——相当大きな違いであるかどうか知りませんが、こんなことで何か日本人というものは偏狭で、中国人を相変らず支那人といってばかにする、大韓国人といって本人たちは言っておるけれども、陰では昔流の呼び方をする。それの一つの現われのようなことが、収容所においても行なわれておるということになると、小さなことのようですが、気が悪いというやつなんですね。
反省いたしますと、この日本が、一千万の支那人の台湾は国家と認めるというほど尊重するにかかわらず、一方、六億の中国人の中国、九百万平方キロメートルの全中国を、何ゆえ国家と認めないのであるか、それを、いつ侵略してもいい地域、すなわち平和条約外の地域と何ゆえにしておかねばならないのであるか、この方を日本人は考えた方がいいと思います。
断じて行えば鬼神も避くという支那人の言葉があるように早くやればいいのです。決行しないとますます騒ぎが大きくなって困難になります。ちゅうちょ逡巡するならやめてしまった方がいい。やめてしまうと国防上に何か支障でも来たしますか。やるつもりかどうか。
ちょうど昔の馬賊の跳梁ばっこした支那人の生活と同じなんでございます。
これはむろん、米人であろうと支那人であろうと、日本で商売をやりかつまた建設業法といえ法律がある限り、どっちみち登録をしておることと思いますから、それらの申請等はどういうことになっているか、まず最初に伺いたい。一つその実情を報告してほしいと思う。
支那人がまず来て、日本人と結婚して子供が二人ある。これは私、現実に知っておりますが、その亭主となった人間は日本人との内縁関係があり、すでに戸籍というものからその家内がはずれて支那の籍に入っていても、あなた方は退去命令を食らわしておるという実例があるのですよ。それくらい厳格な取扱いなんですよ。それを、本人がそういうことを言った。
○眞崎委員 私は二月十一日を建国記念日に定められることに非常に賛成ですが、提案者がこういうものを提案せられた理由は、現在の日本が全く精神的統一を欠いて、そうしてこれを客観的に見れば、日本人であるのか、支那人であるのか、ロシヤ人であるのか、アメリカ人であるのか、わからぬような様子になっておるように私は見ておる。
そこに日本人が二十九名、白系が二名、支那人が二名、朝鮮人が二名、これが一つのグループになりまして、労働に服することになったのであります。ナリンスクの収容所は、収容人員が大きいので、七千、小さいので五千、四千名という程度の収容所であります。食物としては、米はいただけません。パンその他雑穀、魚、砂糖。
たとえて申しますと、ラーゲルに新しく、日本人はもちろん、朝鮮人、支那人、ロシヤ人等が入って参りますと、その人がどういう経路を踏んできたかということを問いただしましてそしてその方面に行方不明に関係のある人が行きまして、根堀り葉堀り聞いて、何とか資料を得たいというふうに努力いたしております。
そこに残されたのは日本人一組——支那人も朝鮮人も帰りました。残ったものは日本人と白系露人、無国籍者だけであります。そうしてそれは伐採業務に服役しているのであります。そこで私たちはハバロフスクに送られてきた。
一番大きな原因は、実は満人の土地を、むやみに国策と称して、何百万町歩取り上げて、そうして日本からむやみに、支那人と同じ数にならぬと遂には民族協和ができぬなんというへ理屈をこねて、無理やりにどんどん送ったために満州の農民が怒って、ついに満州国では、関東軍の武力に圧迫されて、仕方がないから、万里の長城を越えて、支那本部においてこれが爆発した。それがつまり日本が支那事変という泥沼に入った根本原因だ。
現在軍工事があるからという人もおりますが、軍工事はあってもアメリカは人種差別がはなはだしく、白人第一主義、黒人第二、フィリピン、支那人第三、本土から行った技術者第四、沖縄人第五という低賃金でこき使われて、実にみじめなものであります。しかし低賃金でも多少仕事があるからいいというものの、あと二カ年もたち、軍工事がなくなったとき、これらの人間がどうなるかと心配せざるを得ないのであります。
私は、従来、支那人を支那人と呼んで何にも悪いことはない、中国人と言うのはかえっておかしいから、今も支那人と言いますけれども、これはお話の通りコリアン。ところが、これを韓国人とこう言ってしまうと、ここで国籍がきまっているようになってしまって、少し正確を欠くということがございましたから、それじゃ韓人にしようじゃないか、コリアンでいいじゃないかということでしたのであります。
結論から申しますと、結局私は一九五四年の八月一日にナリンスクを出発しまして、これはその地区に外国人を置かないという当局者の一つの方針に基きまして、おのずから日本人、ドイツ人、ポーランド人、支那人、朝鮮人、これらが約二百五、六十名一集団をなしまして、ただいまのドジンカと申しまするイエニセー川の下流の港より出発しまして、二十二日間かかりまして、クラスノヤルスクに入ったのであります。
支那人は機敏ですからね。また日本は高いものを買わなければならぬ。安く入札するならわかる。あるいは通産省は監督行政だから、通産省で一定の基準値段でやるというならわかる。ところが吸い上げた。入札は最高値でやられた。そうすれば、必ず台湾の方では値を上げてくる。一かご何ぼという、水揚げされるまでの協定があるんですか。